昭和42年01月01日 元旦祭
(昨日からなんか少しこう気分が悪くなりよる?)目まいがする、立ちながらめまいがするんです。昨日は大祓いの御大祭を奉仕させて頂きながら、お説教させて頂きよりましたらもう途中から、ここにしがみついてから( 急に音が小さくなって聞こえない)というぐらいなあの具合でございましてから、今日も本というたらまだ本当ではございません、なんかこう目が回るんですね。
なんか神様のお気付けをいただきよるとじゃろうと思いますけれどもけれども。私今朝から、朝の御祈念に、これは三代金光様が、の、御晩年のころに全教のものに、と、の当時の信心の目指しとして、「一心の真」というお書き下げを下さったことがございます。その事を頂きましてね。ほんとにあの、一心の真、一心の真はずい分その当時、今も言うておるのでございますけれども。
どういうようなことであろうかと、改めて今朝から思うてみたのでございますけれども。一心とは迷いのない事と仰せられます。真ということは、本当なことだとわたくしは思います、ね。だから迷いのない心で、本当なことに、私は打ち込ませていただくということだと、分からせて頂きました。どうぞ、今年は、いよいよ椛目の上にも大事な、いよいよ、自重をようします時にあたっております。
一心の真を愈々貫かせて頂いて、いわゆるその、迷いのない心で。しかも本当なこと。これならば間違いのないということをひとつ焦点に、本気で打ちこませて頂きたいと、そんなふうに念願させて頂いたので御座います。皆さんもどうぞ、その本当な事とうというのをです、私今朝から、福岡の高橋さんとこの寿司の職人をしておられる職人さんの、まあ長の様な方なんですけれども、熱心にお参りをしておられます。
今朝から早く参って参りまして、それでもう去年はほんとに神様にお約束しておることが何一つ出来ませんでしたけれども、今年はひとつ本気で、今年こそは、こういうこと、こういうことば、箇条書きにしたように、言われるんです。このことは是非ひとつ行のうえにあらわしていきたいとこう言われるんです。で私は申しました、それではね、今年もまたできませんよと私。
したらお取次その方はしていただきたいと思うてみえられるのにできませんというたもんだから、まっかにされたような顔されて折るんです。けれどもね、そうたくさんにせずにね、一つに焦点を絞りなさいと私は申しました、ね。だから一つに焦点を絞ると、まあそれでもでけんかもしれんけれども、その一つのことを考えときゃいいんです。ならどげなことでしょうか。
例えばね、あなたが三福寿司に、働いておられるかぎり、ね、三福寿司の主人である高橋さんの顔色ばっかりいつも見ときなさいと私、ね。どういうふうにあったら、大将が喜んでくれるだろうか。どういうふうにあったら店が繁盛するだろうか。その三福寿司のこと。しかもその中心の主人のことだけを一生懸命思いなさい。そのことでいいとです。そのことを一生懸命思いよんなさりゃあ、あなた自身が助かられますよ。
と言うてまあ申しましたことですございますけれども、信心をすすめさせていただいておる私どもといたしましてはです、ね、私どもの焦点というのが、一心の真ということを、これは私はそのことをいよいよ追求していきたい。これはちょっと余談ですございますけれどもね、昨夜あの、丁度、また夜中から起きりだしましてから二時頃までおかげ頂きました。二時頃まで年始の、夜が明けますと年始にみえる方があります。
それかというとお店にかかわっとるかたはもう二時頃、そのー年末の御礼に出て見える、いつもはそのまあこのごろな、それこそ行く年去る年と迎える年と言う様な感じで御座いましたが、どう言う様な事で私はこんな願いやらをいたしますやら。私はこんな夢やら始めて見た。みなさんこうやって私お話しとりますけれどもね、丁度あのうあのうそこんところガラスのこう筋のいったガラスが御座いますでしょうが。
あれを見ますとね、ところどころ、丁度あれこうして見よるようなふうにしか、皆さんの顔が見えんのです、ただいま。それがですね、どうしたことじゃろうかと私が思いましたらね、神様から頂きますことがこんなこと頂くんですね。例えば深い深い穴とか井戸なんかになりますとね、あのー悪いガスが出るんですね。あのガスに当てられとるんじゃというふうなことを頂くんです。
私は今朝からまあある人にお話したんですけども、もう思い出したらね、もうそれをなんかすっきりするまでは思い続けなければできない性分なんです。もう私はなんにもできない。もうほんと私んごとつまらんものはないですけれどもね、これだけは誰よりも私はその(微笑)、一生懸命思うその性分、ね。ほんとにこの、なんと申しますかね、もう胸が痛うなるです私が思いだしよりますと。
確かにですね、好きな人のでけてからの胸のいたみに、その痛みに耐えかねるという様な事を申しますけれども、私はまだそういう経験ないけれどもですね、何かを一つ思いだしますとですね、もうそれを是から外されんのです。息が詰まるぐらいあるんです、ね。それはでもその深いその事をひとつ深く深く考えなきゃできらんです。それがですね、矢張りあのガスに、深い所の深いガスが、これは不思議なことですね、
信心を段々段々進めていきよりますと、ただ有難い所ばぁっかり見えるですけれどもそうじゃないんです。やっぱり時々はそのそのなんと申しますか、高い所にはその空気が薄い、希薄な所があったり、致しますようにですね。またはその深い所にはそういうガスにあてられる様な事があるんです。私は丁度そのガスにあてられておる様な事で御座いますから、これは時期をまてばおかげを頂けるもんだとこう思うんです。
只今も二階にあがっとりましたらですね、楽人さんたちがみんなでそろってから御礼にでてきました。楽人さん達にその事を申しますんです。ほんとにあの、今年は愈々まあ大変な年になりそうです。だから楽人さん達もしっかり信心を進めて下さいよと。例えば、こうしてお祭りを仕えさせて頂きますと、あの琴の調べに私どもも乗ってお祭りを仕えさせて頂きます。あのリズムにのってのです。
私は気分が悪かったんですけれどもね、今日はあの琴のあの調子の合うた、ひとつのリズムの中に、お祭りを奉仕させて頂きよりますと、なんとはなしに気分がよくなったんですよ。ですから、そういう大事な御用を承っておられるのですから、その良いリズムが奏でられなければならないのに、一つ調子が間違ったらたいへんなことなんですからね。琴の調子だけではありません、肝心要のこの調子が狂うたら困ります。
楽人さん、しっかりお願いしますよと言うてもう、お願いしたんですけれどもね。是はお互いに色んな事がそうだと言えるんです、思うんです、ね。ですから只一心の真と、いわゆる十何年前に頂きました事を、ただ一心の真を頂いておるだけでは、それはおかげにはなりません。一心とはどう言う様な事か。真とはどう言う様な事か。それならその一心の真を持って、打ち込ませて頂くと言う事はどういうよな事なのか。
昨日、丁度二時ちょっと前でございました。田主丸のむつやさんが親子、それから善導寺の久保山さんが夫婦で、こっちはその年末の最後の御礼に出て見えられたんです。でーあのーお届けされましてから、私お届けさせていただきました。そしたらね、こういう意味のことを頂くんです。今年は、いや昨日の話ですよね、まだ。今年は御造営に明けて御造営に暮れたね、ということでした。
私はそれを勤めさせていただきましたらもう、私も感激なら久保山さんも田代さんも、もうほんとに、私が憚らず大声を上げて泣きたいごたる感激を感じました、ね。御造営に明けて、そして御造営に暮れた。今年もまた、おそらくは御造営に明け暮れすることでございましょうけれども、今日私が申します、一心の真というものがです、ね、分からせていただいたらいただくほどにです。
その一心が真を、神様の願いの成就でありますところの御造営、いわば成就ということがです。私共がその事を一心の真を持って打ち込ませて頂いたら、これこそ間違いのない焦点であることを、私は確信致します。もう本当にあの、年末から皆さんおかげを受けておられる様々なことを、お話をさせて頂きたいとも思います、また思いよりましたけれども、ほんとお話しよりましてもです、もうどうかいけんのです。私は今日これで、御挨拶だけで終わらせて頂きますけれども。
どうぞ皆さんもこの、元日の気持ちを一年中持ち続ける、と言う様な事はなかなかむつかしい、ね。その為には様々な形の上においての演出を致しましてでも、その正月の気分を、いわゆる目出度いという気分を頂こうとする訳です。門松を立てる事もお食物のことでも、日頃は食べない様なものを食べて、あれはひとつの演出なんですよね。というていつも門松立てたり、いつもお雑煮を祝うたりというわけにはまいりませんのですから、ね、私共の心の上に頂きますところのお目出度いという心、ね。
一日を朝起きたら必ず、お目でとう御座いますと例えばこう御挨拶がでけるような心の状態。それは結局ありがたくならせて頂くことだと、有難う御座います、有難う御座いますとこう、言い合えることだとこう思うのです。ですからそういう有難う御座いますという心の状態をです、私どもは絶えず工夫しなければならない。いわゆる演出してでも 、それを頂かせて頂く事につとめなければならないのでございます。
どうぞよろしゅうお願いいたします。